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札幌高等裁判所 平成5年(う)116号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中七〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人橋場弘之作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官小谷文夫作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意(責任能力に関する事実誤認の主張)に対する判断

論旨は、本件犯行当時、被告人はアルコール依存症に罹患しており、右疾病に基づくエチルアルコールの体内多量摂取及びベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の服用等に起因する病的酩酊に陥り、心神喪失の状態にあったものであり、仮にそうでないとしても、少なくとも心神耗弱による限定責任能力者であったものであるのに、この点を看過した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討すると、関係証拠によれば、本件犯行当時、被告人に完全な責任能力があったことを優に認めることができる。以下、所論を中心に補足して説明する。なお、証拠に付した括弧内の数字等は、原審証拠等関係カードの検察官の請求番号を示す。

一  本件犯行前後の被告人の行動及び飲酒状況

本件当時、被告人は、原判示被告人宅で妻である被害者と二人きりで生活していたものであり、本件では被害者が死亡していることから、本件犯行前後の状況の確定については被告人の供述に頼らざるを得ないものの、被告人の記憶があいまいであったり、故意に事実を述べていないのではないかとうかがわれる点もあるので、以下、この点の留保を付した上で被告人の供述を掲記する。

1  まず、被告人の本件犯行の翌日である平成五年一月一四日付け警察官調書(乙三、なお、内容を明確にする範囲で、関係証拠によって認められる客観的な事実を付加する。)によれば、後記第二の一で検討するとおり信用することのできない部分もあるが、本件犯行前後の被告人らの行動及び飲酒状況は次のとおりであるというのである。

平成五年一月一二日午前一〇時ころから、自宅二階の居間兼台所のソファーに横になりながら、二〇度の焼酎をオレンジジュースと半々に割ったものを飲み始め、少しずつ飲んでは居眠りをしており、被害者がパート先のレストランから帰宅した午後五時三〇分ころまでに右焼酎を三合から五合飲んだ。

その後、居間兼台所で被害者と共に更に飲酒を続け、被告人は焼酎七、オレンジジュース三の割合で割ったものを、被害者は日本酒をコップに入れて飲んだ。被告人は酔ってはいたが足元がふらつくまでの酔いではなく、被害者と話をするうち、被害者が働いて得た金を被告人に秘密にして使っていることが気になりその使途を質した。被害者が明解な返事をしないことから段々腹が立ち、「お前、その金を男に貢いでいるのか。」と言って更に詰問した。しかし、被害者が全く何も答えなかったので立腹し、被害者の胸付近を二、三回平手で殴った。

すると被害者は、流し台の扉を開けて包丁を出して突き付けて来た。被告人は、驚いて椅子ごと倒れ、このままでは刺されると思って直ぐ立ち上がり、本箱の横に置いておいた竹刀を持ち出した。竹刀を両手に持ち、立っている被害者の右腕を強くたたくと、包丁をその場に落とした。被告人はそのまま被害者の腕や背中をたたいたが、その回数は記憶にない。その後、被害者が椅子に座って被告人に何かを言い、被告人は被害者の背中を竹刀で一〇回くらい強くたたいた。

被告人は、左手で被告人にたたかれた右腕付近を押さえて痛そうにしていた被害者に、「お前がきちんと言わないからこの様なことになるんだ。家庭の中も不和になるんだ。」と言ったが、それでも使い道を言わないので追及をあきらめ、竹刀をもとの場所にしまった。これ以上は話してもだめだと考え、コップに焼酎を入れて飲んだところ、被害者は、右腕を痛そうにしながら三階の自分の寝室に行った。

この時、柱時計を見ると午前一時になっていたので、自分も寝ようと思い、コップに入っている焼酎を飲み、電気を消して三階に上がった。被告人は、被害者がいつも自室のストーブを点けたまま寝てしまうので確認しよと考え、被害者の部屋に入った。すると、被害者が室内に入ってきたことを非難し、被告人を馬鹿にしたようなことを言ったため、被告人は立腹してベッドで寝ている被害者の右側に立って腰付近を踏み付けたり、三回くらい蹴ったりした。この時、原因は分からないものの電気が消えたので、そのまま自室に行って寝た。

翌一三日は、午前八時ころに目覚め、居間兼台所に行くと、被害者が寝間着のまま勤務先に電話をかけ、「今日は具合が悪いから休みます。」と話していた。それを聞いて、被告人は、焼酎を飲み、また寝て、午前一〇時ころ寝室から降りて来ると、被害者が二階の階段横の廊下に、服を着た上にオーバーを着て、うつ伏せの状態で倒れていた。三階の自室に行って寝るように言い、被害者も行くと言ったが自分で立てないようだったので、手を貸そうとしたが重くて連れて行けず、二階の居間兼台所の奥にある和室まで連れて行って座布団の上に寝かせ、被告人は再度焼酎を飲み、寝室に行き、寝てしまった。

その後、どのくらい寝たか分からないが、起きて被害者の所へ行き声をかけたものの、全く意識がなかったので、救急車で病院まで搬送してもらったが、被害者は死亡してしまった。

2  右警察官調書以後、原審公判までの供述

(一) 被告人は、本件犯行当時までの飲酒量などについて、右のほか次のとおり述べている。

(1)一二日、起きてから翌一三日午前零時過ぎまで焼酎を五、六合飲んでおり、平素の酒量は焼酎だと五、六合が限度だが、この日は、朝からちびりちびり時間をかけて飲んでいたので、それほど酔いは回っておらず、足元がふらつくこともなく、言葉使いもはっきりしていたと思う。その後のこともだいたい覚えている(平成五年一月二九日付け検察官調書、乙九)。

(2)被害者が帰って来てから飲んだ量は明確でないが、一二日の朝から飲んだ量は全部で六合くらいであり、ちびちび飲んでいたから、酔いが急に回ってくるという状態ではなく、体がよたよたするような状態ではなかった(原審第二回公判)。

(二) また、本件犯行前後の行動等について、平成五年一月二九日付け検察官調書(乙九)では、次の点が付加されている。

(1)被告人はこれまで長年にわたって飲酒してきたが、酒を飲んで頭がおかしくなって幻覚や幻聴が現れたことは一度もなく、本件のときもそのようなことはなかった。

(2)本件犯行前に飲酒した際のつまみは漬け物などであった。一月一二日は、被害者が帰宅後一緒に食事をし、後片づけが終わった午後七時ころから、二人とも飲酒しながら、ビデオに録画したテレビ番組等を見ていた。

(3)テレビを見終わった後、焼酎を飲んで寝ようと思い、ソファーから立ち上がってソファーの後ろにある丸いテーブルの椅子に座り、かねてから気になっていた、被害者が預金通帳の金を被告人に無断で引き出している理由について聞こうと思った。

3  当審公判供述

被告人は、当審に至って、一二日の朝から飲んだ量は、一升か、それ以上になっているかもしれないとか、本件犯行に至るまでの意識状態について、もうろうとしており、時間についてもはっきりした時刻は言えないと述べるなど、それまでの供述を変更している。

二  本件犯行に至るまでの被告人の生活歴等

被告人のアルコール飲用歴は相当古く、関係証拠によれば、次のような事実が認められる。

1  被告人は、かつて小学校の教諭をしていたものであるが、昭和四六年八月、同僚の教員と飲酒の上けんかとなり、相手を殴ったという暴行罪で不起訴処分となったほか、飲酒が原因となって数回にわたり職務をとることが困難であるとして長期の休職命令を受けるなどしている。

2  被告人は、昭和四五年一一月に北海道大学医学部精神神経科で受診し、その結果、多量な飲酒を繰り返しては、被害者が浮気をしていると信じ込んで乱暴したり、時には学校を休んで朝から飲むこともあり、学校側から再三注意を受けているなどとして、慢性アルコール中毒(嫉妬妄想)との診断を受け、以後、いくつかの病院の精神科で受診し、入院や通院するなどしている。

3  A子の検察官調書(甲二四)等によれば、被告人は、普段は無口でおとなしい性格だが、酒を飲むと一転して話すことがくどくなり、もっと飲むと、被害者に「男がいるでないか。金の使い方が分からない。」等と言い出しけんかとなる。A子が小学校五年生くらいの時が一番ひどく、被告人が酒を飲んでは家の中で暴れ、被害者やA子、弟の三人が雪の中を素足で逃げ回ったこともあった、というのである。また、Bの検察官調書(甲二一)や当審証言によれば、A子と同様のことのほか、平成二、三年ころ、被告人と言い合いをしたところ、その後酔った被告人からこしょうをかけられ、五寸釘で刺されそうになったなどというのである。

三  被告人の精神鑑定

所論にかんがみ、当審において三度にわたり被告人の精神鑑定を実施したが、その結果は、次のようなものである。

1  鑑定人齋藤利和による鑑定(鑑定書及び同鑑定人の当審証言を併せて、以下「齋藤鑑定」という。)

〈1〉被告人にはもともと人格障害が存在し、長年にわたる飲酒により、これが増幅している可能性が高く、少なくとも知的レベルの低下は明らかである。一方、〈2〉被告人には、複雑酩酊の素質があり、また、長期にわたる飲酒により、アルコール依存症の状態にあるといえる。このアルコール依存症による抗しがたい飲酒欲求が本件犯行を含めた複雑酩酊による種々の飲酒・酩酊上の問題行動を引き起こしている。〈1〉及び〈2〉は独立して存在しているのではなく、相互に関連しており、本件犯行は、それらのすべての影響下に行なわれたと結論する。したがって、被告人は、本件犯行当時、是非・善悪の判断能力は著しく低下していたと推量される。

2  鑑定人有田矩明による鑑定(鑑定書及び同鑑定人の当審証言を併せて、以下「有田鑑定」という。)

被告人は、本件犯行当時、被害妄想を主とする精神病状態下にあり、さらに、長時間にわたる大量の飲酒で異常酩酊を呈し、併せて、酩酊を相乗的に強化する薬剤の混合酩酊及び被害妄想が刺激されることによる情動反応が加担して、もうろう症状を伴なう複雑酩酊が呈していたもので、本件犯行時には、責任能力が完全に問えないほど極めて著しい障害を受けている精神状態にあったと臨床的に判断する。

3  鑑定人片岡憲章による鑑定(鑑定書及び同鑑定人の当審証言を併せて、以下「片岡鑑定」という。)

被告人は、本件犯行当時、妄想を有するなどの精神状態にはなかった。被告人は、本件犯行当時、アルコール飲用により単純酩酊の状態にあったが、病的酩酊、複雑酩酊等の状態にあったとは、その当時の記憶の保持状態、行動などから断言できない。被告人は、本件犯行当時の記憶が一部ない旨供述しているが、睡眠薬を服用して寝たり起きたりしていたという供述のごとく、睡眠時の記憶がないことは合理的である。以上により、本件犯行当時、被告人の是非弁別能力が精神病的に障害されたり、アルコールによる複雑酩酊状態によって障害されていたとはいえない。

四  検討

1  まず、本件犯行時までの被告人の飲酒量についてみると、右のとおり被告人の供述は一定しておらず、これを確定することは困難であるが、約六合くらいであったという、検察官に対する供述や原審公判供述の方が一貫している上、本件犯行の翌日に録取された右警察官調書中の供述にもこれに近いことが述べられていることなどから、その信用性は比較的高いということができる。他方、一升は超えていたという被告人の当審供述は、当審に至って突如として言い出されたもので、供述を変更する合理的な理由が認められず、一升以上であるという根拠について述べるところも具体的根拠が乏しいことに加え、本件犯行当時の意識等に関して述べるところも、原審公判までの供述に比べ漠然としたものとしようとする意図がうかがえるものになっていることなどを併せ考慮すると、即座には信用することができない。

そして、原審公判までの被告人の供述によると、被告人の本件犯行時に至るまでの酒量は、平素の酒量の限界である五、六合と同程度であり、仮にこれをある程度上回っていたとしても、時間をかけてわずかずつ飲酒していたものであるから、原審公判において被告人がいうとおり、それほど深くは酔っていなかったとみることができる。

2  また、原審公判までの被告人の供述によれば、被告人は、前記の程度であっても、飲酒の経緯、状況を記憶していること、被害者が帰宅後、共に飲酒しビデオを見るなどした状況、被害者の預金の使途について追及し、その態度に立腹して暴行を加えた状況、暴行を加えられた被害者が痛そうな様子で寝室に行った状況、その時間が柱時計を見て午前一時ころであったと確認したこと、その後の被害者の部屋でのやり取りと暴行等について、島状であるとはいえ、それなりの記憶を有しているといえる。

3  さらに、前記のような留保がある被告人の供述によっても、被告人は、被害者を右のとおり追及したものの、被害者が何も答えず、痛そうにしていることから、それ以上問い質すのをあきらめたり、自分も寝ようとして二階居間兼台所の電気を消し、さらには、被害者がいつも自室のストーブの火を点けたまま寝てしまうので確認しようと考えるなど、相応の判断と行動をとっていることが認められる。

4  そして、三つの鑑定中、片岡鑑定は、右認定の諸事実に符合し、被告人の本件犯行の理解として最も合理的であり、十分信用できるものと考えられるところ、片岡鑑定によれば、被告人には、精神病を示す人格障害や複雑酩酊の素因となるようなものはなく、猜疑心から、長年にわたり飲酒しては被害者の不貞を疑い暴力に及んできているものと判断されるというのであることなどを併せ考えると、被告人が被害者に暴行を加えた動機として述べるところもそれなりに了解可能である。確かに、被告人の本件犯行の際の暴行はこれまでになく激しいものであるが、それでも本件犯行はこれまでの飲酒の上での暴力等の延長線上にあるものと認められ、ただ、このような行為にまで及んだ契機やその内容については、被告人がすべてを語っているとはいいがたい点から確定することができないのである。そうしてみると、本件犯行当時、被告人は、相当量の飲酒によりかなり酩酊してはいたが、いまだ事理の弁別能力、弁別にしたがって行動する能力が著しく低下した状況にはなかったものと認められ、まして、このような能力を喪失した状況にはなかったことは明らかであるといわなければならない。

5  所論は、(一)被告人には、過去における異常酩酊の既往歴や酩酊犯罪歴の存在といった、異常酩酊の素質的要因があり、(二)当時多量に飲酒して血中アルコール濃度も高かったことに加え、(三)被告人には、脳萎縮を伴なう大脳症候群等やベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の長期多剤連用の影響や、(四)爆発的情動性意識障害の存在が本件犯行時に認められることなどから、被告人は当時異常酩酊状態にあったものであるとして、前記有田鑑定や齋藤鑑定等を根拠としてあげている。

しかし、(一)については、片岡鑑定によれば、被告人には、爆発精神病質者の特徴を示す異常人格が認められるものの、病的酩酊ないし複雑酩酊の素質的要因となるようなものは認められないというのであるところ、その判断は、片岡鑑定人の精神科医師としての知識及び臨床経験に裏打ちされた合理的なものであって、十分信用することができるものであると考えられる。そして、片岡鑑定にかんがみると、所論が被告人の過去における異常酩酊の既往歴として種々例示する諸事情は、右異常人格を現わす事象に過ぎず、また、飲酒の上での検挙歴もかなり昔の一回だけのものであって、他の事情と同様のものと認められる。

被告人に所論のような素質的要因があるとする齋藤鑑定及び有田鑑定は、まずこの点で採用できない。すなわち、齋藤鑑定によると、飲酒の上で暴力等の問題行動を繰り返し、嫉妬妄想の可能性もあることから異常酩酊の素因があるとし、有田鑑定は被告人に嫉妬妄想や被害者から攻撃されるのではないかという被害妄想を認めている。しかし、片岡鑑定によれば、被告人が被害者の不貞を疑うようになったのは、かつて勤務していた小学校の校長の妻からそれらしきことを聞いたが確信を持てないという、事実的な根拠のある猜疑心にとどまるものであって、それらがないのに確信を抱く妄想とは異なり、その発現状況も、飲酒の有無を問わない嫉妬妄想や被告人のように長期間にわたって継続することのないアルコール性嫉妬妄想とは全く異なるというのである。また、有田鑑定のいう被害妄想の点については、その前提としてあげている、本件犯行直前、被害者が包丁で突きかかって来たという事実自体が、後記のとおり、関係証拠を検討しても認められないなど、前提事実のとらえ方に誤りがあって採用することができない。

次に、(二)本件犯行当時の飲酒量等についてみると、その量及び状況は前記認定のとおりであって、多量ではあるが複雑酩酊となるほどのものであったとは認められない。この点、齋藤鑑定は、比較的少量の飲酒後、血中アルコール消失率や脳波所見をみるための規定飲酒法によった上、逮捕後警察で行なわれたという呼気アルコール濃度の測定結果から推認しているが、その手法や前提事実のとらえ方自体に疑問がある。また、有田鑑定では、被告人の飲酒量を一升以上と認定しており、この点ですでに前提を異にしているといわなければならない。

(三)のうち、所論の脳萎縮を伴なう大脳症候群等の存在については、片岡鑑定によれば、脳波の異常や記憶障害もなく、何らかの脳障害の存在を示唆する知能テストの所見も、被告人の年齢等を考慮すると年齢相応の所見と解釈でき、著しい判断能力の低下を示唆するものではないというのであるところ、片岡鑑定人の精神科医師としての知識及び経験からみて十分信用できる。また、ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の多量服用の影響について、有田鑑定によれば、被告人は、本件犯行当時、右薬剤の大量服用と多量飲酒によりもうろう状態となり、顕著な健忘をきたしたというのである。しかし、片岡鑑定によれば、右薬剤は、行為当時には判断力があるが、睡眠後その記憶がなくなるというものに過ぎず、本件犯行当時、被告人が原判示のような行動をとっているということは、右薬剤の影響が少なかったことを示すものである上、島状の記憶も、右睡眠薬を飲んでいたことからしてよく説明ができるというのであって、有田鑑定のようにとらえることは相当でない。

また、(四)については、前記2、3のとおり、それなりの記憶の存在や相応の判断と行動をとっていることが認められる上、片岡鑑定によれば、本件犯行当時、爆発的情動性意識障害があったとは認められないというのであるところ、その判断は相当と考えられる。

6  ところで、所論は、片岡鑑定について次のような批判をしている。すなわち、(一)飲酒試験における血中アルコール濃度の評価に疑問があり、(二)本件犯行状況の再現性が低く、飲酒試験でのベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の混合酩酊と事件の関係や、被告人が発している言動そのものが脳萎縮に基づく反応であることを否定するについての裏付けがなく、また、家族等からの事情聴取が絶対的に不足している。(三)本件犯行の妄想ないし妄想様状態を簡単に否定して、被害者の過去の不貞が事実に近いとする根拠が乏しい、(四)当審公判廷で、アルコールとベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の同時摂取によって急に脳の環境が変化し、おかしな行動に出ることになると言う一方、鑑定主文において、右同時摂取による行動異常を否定するのは論理の欠落である。

しかし、(一)は、アルコールを含む薬物の効果が最大限になるのは摂取後二時間くらい経った時点であることや、体脂肪によるアルコールの吸収と放出という現象によって十分納得のいく評価ができるとする片岡鑑定人の当審証言に特段不合理な点はない。

(二)は、そもそも飲酒鑑定が本件犯行時の状況を完全に再現できものではなく、継続的に飲酒していた本件犯行時から相当の期間が経過し、しかも前二回の鑑定における飲酒鑑定の際に飲酒しただけで、あとは全く飲酒をしていない状況等を考えれば、とりたてて犯行再現性が低いともいえず、所論の混合酩酊や脳萎縮にかかわる点についての判断も、精神科医師としての知識や技能と長年の臨床経験に基づいてこれらを否定しているものであるし、また、鑑定人としては、収集されたデータをもとに、自らの知識や経験をもって鑑定するのがその職責であるところ、片岡鑑定に至るまでに二回の鑑定がなされており、そこで収集されたデータが正確であれば、自ら収集せずこれらを利用するのも合理的であり、これをしないからといって鑑定内容の信頼性が劣ることにはならない。

(三)は、妄想ないし妄想様状態を否定するのは、右のような精神科医師としての知識と経験に基づくもので十分な説得力があり、また、片岡鑑定をよく検討すれば、片岡鑑定人の指摘するところの事実の存在とは、被告人が述べる被害者の不貞に他人の発言という根拠事実があるというもので、その内容まで事実であるとするものでないことは明らかである。

(四)の片岡鑑定人の当審証言は、有田鑑定において、飲酒試験の冒頭でベンゾジアゼピン系睡眠導入剤を服用させた上、多量のアルコールを摂取させた方法についての評価として述べたもので、片岡鑑定人の飲酒試験では、そのような方法はとらえておらず、本件犯行時の被告人の右睡眠導入剤の服用状況である、長時間をかけた飲酒の途中でこれら薬物を服用したという経緯を前提として導いた鑑定主文であると理解されるから、右証言との間に所論の不合理さはない。

五  その他所論にかんがみ証拠を検討しても、原判決に所論の事実誤認は認められない。論旨は理由がない。

第二  職権判断

弁護人は、原判決には、次のような事実誤認、量刑不当及び被告人のいうところの訴訟手続の法令違反があるので、職権により調査されたいという。そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討する。

一  正当防衛(誤想防衛、誤想過剰防衛)を認めなかった事実誤認

本件は、被告人が、被害者の包丁又は果物ナイフあるいは鋏といった刃物で被告人に突きかかってきた急迫不正の侵害に対し、身の危険を感じて、自らの生命・身体を防衛する意思で、やむを得ず反撃を加えたもので、正当防衛が成立する。仮に、被害者の攻撃が被告人の生命・身体の危険を脅かす程度のものに至っていなかったとしても、異常酩酊下にあり、かつ、被害妄想状態に陥っていた被告人の精神状態を考慮すると、誤想防衛又は誤想過剰防衛が成立する。それなのに、原判決は正当防衛を否定し、誤想防衛等についての判断をしておらず、この点で、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある。

1  正当防衛の成否に関しては、原判決が「争点に対する判断」の項(以下「補足説明」という。)の「四、正当防衛の成否について」で詳しく検討し、被告人のこの点に関する弁解は、凶器の持ち出し状況等の重要な部分に不自然な変遷がある上、その弁解内容自体、不自然・不合理で、犯行現場に残された客観的状況と必ずしも整合しておらず、他方、被害者に凶器を持ち出す合理的な動機も認められないことに照らすと、被害者が包丁を持ち出し、被告人に突きかかってきたとは到底認められず、結局、被告人に対する急迫不正の侵害は認められないから、正当防衛は成立しないと判示しているところ、関係証拠によって改めて検討しても、その内容はすべて正当として首肯することができる。加えて、被告人は、当審公判廷において、被害者が包丁を持って突きかかって来るとき、瞬間的にその手元を見ると、両手の親指と人差し指の間の谷間の部分が厚くなるよう、ぐるぐる包帯を巻いていたと、その状況をより詳しく供述しているところ、当審段階に至ってこのようなことを言い出すこと自体、原判決の指摘する供述の不自然さを強めるものである上、内容的にも不合理なものであって、急迫不正の侵害などなかったという右判断を更に裏付けるものである。

2  所論は、右の検討では、被告人や被害者の言動について、次のような状況が看過されていると主張する。

(一) 被告人の事情として、(1)被告人が長期にわたり病的ともいえる飲酒を継続したことにより、本件犯行当時、被告人がアルコール依存症に罹患しており、人格障害をきたしていたこと、(2)本件犯行当時、被告人が病的酩酊あるいは複雑酩酊の状態にあったこと、(3)被告人の人格特徴として強い猜疑心が認められること、(4)アルコール性嫉妬妄想にとらわれていたこと、を看過している。

(二) また、被害者の事情についても、(1)被告人の猜疑心の強さから、被害者に対する金の使途の追及はかなり激しかったこと、(2)被告人のアルコール性嫉妬妄想から、被害者の不貞を疑う激しい言葉が飛び交ったことに疑いの余地がないこと、(3)本件犯行の前日、甲野家の遺産処理をめぐる内紛があり被害者が殴られていること、そして何より、(4)被告人の病的飲酒に長期間悩まされ続けてきた心労による強烈なストレスがかかった状況に陥っていたこと、さらに、(5)本件犯行当時の被害者が相当程度の酩酊状態にあったこと、を看過している。

3  しかし、被告人には、所論の人格障害やアルコール性嫉妬妄想は認められず、本件犯行当時、飲酒により相当酩酊してはいたものの、病的酩酊や複雑酩酊の状態でなかったことは前に検討したとおりであり、右(一)の(1)、(2)、(4)の各主張は認められない。

確かに、被害者には、本件犯行当時、被告人の猜疑心から金の使途や不貞を疑う激しい追及があったことや、(二)(4)のストレスの蓄積がうかがわれ、さらに、その遺体から検出された血中アルコール濃度から、本件犯行当時の具体的な状況は確定できないまでも、被害者が飲酒酩酊していたことが推認される。しかし、関係証拠によれば、原判決も補足説明で指摘するとおり、被害者が被告人に長年にわたって暴力を振るわれても、これまで抵抗するため暴力を振るったことはなく、まして包丁を突き付けたことはないのであって、そのことは、本件犯行の翌日に実施された検証の結果によれば、包丁等を持ち出したとするのとは相容れない包丁等の収納状況などが認められるといった客観的状況によっても裏付けられる。所論は、被害者の酩酊度やストレスの蓄積などから、包丁で被告人に立ち向かったとみるのが合理的であるとする齋藤鑑定や有田鑑定を根拠としてあげるが、これらを再度検討しても、可能性があるということにとどまり、本件では、右のような客観的状況などからみて、その事実は認められない。

以上のとおり、本件においては、所論の急迫不正な侵害は認められず、被告人の弁解はそれ自体信用できないものであり、また、被告人には所論の人格障害や被害妄想、異常酩酊等が認められないことなどからして、被告人の弁解をもって、被告人が被害者の攻撃を誤信したとは認められない。したがって、本件では被告人に正当防衛、さらには誤想防衛、誤想過剰防衛は成立しない。

二  因果関係に関する事実誤認

原判決は、補足説明の「三、因果関係の有無について」で、被害者の肋骨骨折は被告人の違法な行為によるものである旨認定している。しかし、右肋骨骨折の原因は、ストレッチャー等の固い物体の上に横たわっていた生存中の被害者に対して、被告人又は第三者によって、蘇生術としての心臓マッサージが行なわれた際に、強い圧力がかけられた結果生じたものである可能性を否定できないから、被告人の行為によるとするには合理的な疑いがあり、原判決にはこの点で、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある。

この点は、所論も認めるとおり、そもそも理由中の判断内容に関するもので、刑訴法所定の事実誤認といえるか問題であるが、この点はさておき検討する。原判決は、森田匡彦作成の鑑定書(甲三)及び原審証言や被害者の骨折状況、検証によって認められる被害者の寝室内の状況などから、被害者の右傷害も被告人の暴行によって生じたものであると推認しているが、関係証拠によって再度検討してみても、右説示が不合理であるとはいえない。なお、当審において取り調べた札幌市消防局の平成七年八月二日付け「緊急出動に対する照会について(回答)」と題する書面及び勤医協中央病院の「C子殿診療録(写)外来分」と題する書面によれば、救急隊員や医師が心臓マッサージをした事実が認められるものの、これによって右骨折が生じたかどうかは明らかでなく、所論はいまだ一つの推論にとどまるといわなければならない。また、仮にそうであるとしても、電話通信用紙(甲2)によれば、救急隊員が到着したときには、すでに被害者の意識も血圧計の反応もなく、死亡推定時刻などと総合して考えると、被害者は、搬送時にはすでに死亡していたものと認められるし、森田鑑定書及び証言によれば、右傷害は被害者の死因には結び付かないものであるから、いずれにしても本件傷害致死の事実認定を左右しない。

三  訴訟手続の法令違反(憲法違反)

弁護人は、被告人が強く主張するのでその判断を求めるとして、被告人の次のような主張をあげる。すなわち、本件捜査段階における取調べの際に、被告人は、警察官から「まだまだあるぞ。言わないというと裁判に行ったら困るぞ。きさまがやったんだ、きさまのような者は永久に刑務所にぶち込んでやる。」などと脅迫され、自白することを強要された。このような取調べ警察官の言動は、憲法三八条二項及び九八条に抵触し、かつ、判決に影響を及ぼす法令違反があるから、被告人は無罪である、というのである。

被告人は、当審公判廷において、右のとおりの供述をする。しかし、被告人によれば、その警察官調書は被告人が述べたとおり録取されているというのであって、このような調書を録取するに当たり、取調べ警察官が被告人のいうような言動に出たとは考えがたい上、警察官調書の内容を子細に検討しても、被告人のいうような状況をうかがわせるようなものはみられない。また、仮に、取調べ警察官に被告人のいう威圧的な言動があったとしても、右のとおり、警察官調書の任意性には全く疑問がないから、いずれにしても被告人のいうところはその前提を欠き失当である。

四  量刑不当

被告人を懲役四年六月の実刑に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であり、その刑を減刑した上、刑の執行を猶予すべきである、というのである。

本件は、被告人が酔余、当時六五歳の妻が銀行からおろした預金の使い道を明らかにしなかったことに憤激し、被害者に対し、竹刀を用いるなどして原判示のような激しい暴行を加えて全身打撲傷の傷害を負わせた結果、右暴行に基づく出血性ショックにより死亡させた、という傷害致死事件の事案である。

被告人は、かねてから酒を飲んでは被害者に暴力を振るってきたもので、本件当時も、被害者が預金を必要以上に引き出していたことから、男にでも貢いでいるのではないかと邪推して追及したが、何も答えなかったことに立腹して本件犯行に及んだもので、犯行の経緯及び動機は、短絡的かつ身勝手で酌量の余地はない。犯行の態様も、生命を奪う結果を生じるほど激しい暴行を加えた残虐なものであって悪質である。被害者の命を奪ったという本件犯行の結果は重大であり、長年にわたって被告人の飲酒の上での暴力等を耐え忍び、なおこのようなことがなくなることを期待しつつ被告人についてきた被害者の無念さは計り知れない。それなのに、被告人は当審に至るまで、被害者の非を申し立てているばかりか、自己の刑責の軽減を図ろうとする意図も看取されるなど、その態度には真摯な反省の情が認められない。加えて、これまで医療機関を含め飲酒について種々の働きかけがあったにもかかわらず、ついに本件犯行に至った被告人の生活態度は厳しく非難されなくてはならないことなどを併せ考えると、その刑事責任は重いといわなければならない。

そうすると、被告人が、被害者が倒れているのを発見した後、休ませようと和室まで連れて行って寝かせたり、弟に指摘されたとはいえ、自ら救急車を呼んでいること、肋骨の骨折については被告人の暴行によるものではない可能性もあること、被告人が被害者の冥福を祈っているというのであること、被告人には前科はなく、教職を勤めあげて六七歳の今日に至っていること、右年齢やその健康状態が優れないこと等、被告人のため酌むことのできる諸事情を斟酌しても、本件が刑を減刑した上、その刑の執行を猶予すべき事案であるとはいえず、刑期の点でも原判決の量刑は相当であり、これが重過ぎて不当であるとは認められない。

そこで、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、当審における未決勾留日数の算入につき平成七年法律第九一号による改正前の刑法二一条を、当審における訴訟費用の不負担につき刑訴法一八一条一項ただし書をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 萩原昌三郎 裁判官 高麗邦彦)

裁判官 宮森輝雄は、転補のため署名、押印することができない。

(裁判長裁判官 萩原昌三郎)

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